今現在、北部山原の森は野鳥の繁殖期にあたるため、重機などを使う(大きな音がいけない)工事がストップしている。
ただ何か動きがあるかもしれない。飛んできてはいけないはずのNH68というヘリコプターや、オスプレーが飛んでいないかチェックしなきゃいけない!
ということでヘリパッド阻止のため、東村高江では朝8時~夕方5時まで、誰かが座り込みをしています。もちろん何かあれば、こういった時間も変わるのですが…。
私も本日は座り込みに参加するため、トゥータンヤ~(とたんの家)という、支援者が泊まれる宿泊施設から、当番の方にN4テントまで連れていっていただきました。受付の準備をして、座っていたら、おじいさんが散歩しています。「おはようございます。」と挨g拶を交わしました。
折り返して来たおじいさん、テントで「ちょっと休んでいこうかな」と椅子に座り、お茶を飲みながら話をしてくれました。
2時間ほどお話をお聞きしましたが、とにかくすごい話をお聞きしました。人生すべてが壮絶でした。
・お父さんが平和活動家で、警察から目をつけられていて、山に隠れて生活されていたこと。そのため家にはあまり帰ってこれず、会えなかった。
警察に捕まり、それ以後帰って来なかったらしいです。
・戦時中の話 たくさん
青年時代、米軍のキャンプ地で、隠れて様子を伺い、ゴミ箱に捨てられる食べ物を持ち帰ったこと。そこではじめて肌の黒い人に出会い、衝撃をうけたこと。その人は優しい方で、自分の食べ物をくれたそうです。
・お金がないので、仲間と共に米軍のキャンプ地(ふねだったかな?)に忍び込み、洋服を盗みだし、一人片付けをしていて、見つかってしまい、逮捕されて、キャンプ地内にある刑務所の様なところで1週間過ごしたこと。(ご飯が食べられるので、ずっといたかったそうです。)
・お姉さんに三線を教えてもらったこと。何年かして、その人は朝鮮から連れてこられたお慰安婦だったという事実を知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになったこと。(「今でも申し訳ないと謝りたい」と涙を流しながら話していました。)
・終戦後、食べ物を求めて、南に下ってさまよっていたとき、赤ちゃんが一人道に寝かされていたこと。泣きもせずじっとしていたそうです。少し離れたところに大人2人の体が横たわっていたそうですが、どうすることもできず、立ち去ったこと…。そんなことが一度ではなかったようです。
戦時中は米兵に見つかると、撃たれるので、まずは赤ちゃんを道の目立つところに置くんだそうです。自分たちは撃たれても一緒に赤ちゃんが撃たれないように…。
・終戦後、那覇から中部にバスを走らせようと、車を直して(米軍の工場を手伝い、部品を盗んだそうです。一度裏の田んぼに投げ入れて、数週間後さびた部品を持ち帰ったそうです。「さびたゴミなどいらない!」と言わせて、堂々と持ち帰ったそうです。また、さびを落として使っていたそうです。)、バスの運転手もしたそうです。
・冷凍庫などない時代、アイスケーキをつくり、みんなに振る舞って喜ばれたこと。その後、糸満の女性たちにお願いされて、与那国島まで舟に乗り、アイスケーキをつくりに行ったそうです。(「糸満の女はこわいよ~」と言われていました。)喜ばれて、アコーディオンをもらって帰って来たんですって。
他にもたくさんのエピソードをお聞きしました。いささんが、話の中で何度も言われていたこと。
「これが戦争だよ。あんなこと、もうしちゃいけない。ちゃんと反省しなきゃ~。」
辺野古や高江、沖縄が抱える問題は、まだまだ続きます。戦争から学べていない今の日本は、これから再び戦争をしようと傾いています。なんとかしなきゃ!
いやぁ、よくメモしてよく書いたねぇ~ 感心感心。
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